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第1話:うめぼしおにぎりの彼女



 朝起きたらまず、白湯を一杯飲むことにしている。

 お湯を沸かしてマグカップに注ぎ、息を吹きかけ頃合いを見計らってからずずずとすすり飲む。そのあたたかな水流は心地良いシャワーとなって、私の内臓を優しく駆け巡ってゆく。

 二人暮らしから一人暮らしに戻って間もないこの部屋の片隅で、私はこれまでの自分を取り戻すように大げさな深呼吸をした。そもそも二人なんて必要なかったのだと、部屋が無言で肯定してくれている気がする。

 窓辺の赤い薔薇は全く好みではなかったから、早々に枯れてくれて良かったと安堵した。と同時に、自分の残酷さにぞっとする。その黒い感情は、一時的にでも不要なものが介在した証。排除しようと無意識化で動く思考をコントロールするなんて至難の業だ。感情と行為が乖離するとき、心と体はいつか必ず分裂してしまうだろう。

 それを回避するには必然の選択だった。と、レポートをまとめるようにその日のノートに記した。

 別れたての朝。シーツには染み一つなくて、私は私に帰還した。そう思った。


6:00 起床

6:10 白湯を飲む

6:15 ラジオ体操

6:30 瞑想

6:40 ヨーグルトを食べてアロエの様子を見る

6:50 ノートを書いて1日のスケジュール確認

7:10 身支度

7:30 出発


 朝のルーティンはこうだ。多少の誤差はあれど、ほぼほぼこのように暮らしている。

 窓辺の枯れた薔薇を捨てて、アロエを元の位置に戻した。数少ない私の理解者。キッチンの窓の下へ追いやられていたけれど、これからはまた、メインよ。肉厚の葉を優しく撫でてから、土の状態を丁寧にチェックする。

 まだ水はいらない。このまま生きていける。ささやかな確認を済ませ、伸びをした。

 自分でルーティンを決める習慣を始めたのには理由がある。当時の私にはどうしても朝が必要だったから。


 朝6時に鳴り響く目覚まし時計のアラームは、玄関チャイムの音をしている。この目覚まし時計は長年探し続けてようやく巡り逢えたこともあり、とても気に入っている。チャイム音の利点はどきりとするところ。毎度のことながら、〝こんな早朝に一体誰が…〟とざわめいた気持ちで目が覚める。もちろん寝起きは悪いが脳ははっきりと覚醒する。

 その日はアラームが鳴る5分前に母から電話があった。朝の6時前。正確には5時55分だ。反射的にひやりとして受話器を取ると、「おはよー」という間延びした声がした。

「なに。どうしたの」

 端的な言葉のせいでぶっきらぼうな返事になる。

「朝焼けがね、綺麗なのよー」

 電話越しに、車が通りすぎる音と鳥の声が交差していた。きっと夜勤明けだろう。高架下の休憩スポットに車を停め窓を開けて、朝陽を眺めている様子が目に浮かぶ。

 彼女は10年前からタクシードライバーをしている。11年前の父の死をきっかけに。

 父と私はとてもよく似ていた。神経質で心配性。母はその逆で、大らかで楽天的。

 父は大学教授をしながら海外に足を運ぶ研究にも携わっていた。母と出会う前、父は20代前半でマンションを買い、ひっそりと一人きりで生きていこうと心に決めていたのだという。誰かと関係を築くことがもともと苦手だったことと、なにより日本と海外を行ったり来たりする職種である為、家族なんてもってのほかと思っていたらしい。

 母との出会いは突然で、そして私が誕生したのも突然だった。

 母はいつでも動いていないと気が済まない性分だったので、私を生んだ直後からどんな仕事でもいいから働きたいと父に懇願したが彼は首を縦に振らなかった。1年の半分以上を留守にする彼にとって、人生最大の心配事は娘である私が無事に生存しつづけることであり、それを死守できるのはこの地球上で母一人だと思っていたからだ。


 それから月日が流れ、父は母に私が大学を卒業するタイミングが来たら外へ働きに出て良いという許可を出した。あの日母が「あーといーちねん!」と嬉しそうにハミングしていたのを覚えている。

 父の死因は、飛行機事故だった。その日のフライトは大幅に遅れた挙句、整備不良で墜落した。朝のニュースに父の名前が出たと同時に家の電話がけたたましく鳴った。私は生まれて初めて、体がすくみ動けなくなる感覚を覚えた。そして視界の隅に、何かから逃げるように固く目を閉じる母の姿が映った。

 直後のことはあまり覚えていない。

 父はこんな事態を見越していたのか、多額の生命保険に入っていた。母一人でつつましく暮らせば、おそらく一生フルタイムで働かなくても良いほどの金額だった。母はそれを、私の学費や引っ越し費用などに使い、自分は自分のお給料で暮らしたいと言って譲らなかった。

「残りはちゃんと老後のお楽しみにするわよ 」疲れきった目を擦りながら、久しぶりににっこりとした母の隣で、その日は私も久しぶりに微笑んだ気がする。


 その後の私たちに起こった確かな変化は、私が飛行機に乗れなくなったこと。母がタクシードライバーになったこと。

 彼女がなぜ数ある職種の中でタクシードライバーを選んだのか、私は知らない。けれど、自分の担当車を自身の愛車よろしく、洗車はもちろん掃除も徹底、好きな音楽とささやかな香り、良い感じの間接照明までつけて楽しんでいるようだった。

 母はふくよかで髪も短い為、制服と帽子をかぶると小柄なお相撲さんのように見える。何度か乗せてもらったときに、後部座席から彼女を見た時の感想だ。口が裂けても言うつもりはないけれど、きっと言っても彼女は愉快そうに笑うだろう。

 車を運転するのが好きだった、と子どもの頃に一度だけ聞いたことがある。理由は忘れてしまったけれど、きっとその延長線上にあるのだと思う。

 タクシー会社によっては担当車がなかったり、内部の飾りつけがNGであるところも多いが、彼女が所属している会社は、個人タクシーが寄り集まって一つになったような場所だった。台風の日には母が目的地まで送迎してくれることになっていて、時間調整の為に事務所の待合室で待たせてもらうことが何度かあった。そんな時、どのドライバーの担当車も愛車よろしく大切に愛でられている様子を目の当たりにした。それは各自が保有する特別なゲストルームのように見えた。


 私は子どもの頃から口下手で、これまで幾度も改善トレーニングを受けたけれど一向に良くならなかった。同年代の人間が同じ部屋に座っている様子が特に苦手だったこともあり、小学生の頃から学校生活が苦痛だった。

 中学生になりとうとう教室に入ることができなくなったとき、母のアイデアと父の説得で、授業の様子を撮影し、その動画を見ながら在宅で勉強をするという方法をとらせてもらった。テストの類はその都度、職員室の隅で個別に受けさせてもらった。当時は中高生による自殺のニュースが世間を賑わせていた頃でもあり、父が校長先生と話し合った結果許可がおりたのだという。

 同年代とのコミュニケーションから逃れ黙々と学問に勤しんだ結果、父と同じ名門校と呼ばれる高校に入ることができた。

 父は月に1週間ほどは帰国していたので、その時に勉強を教わった。それが私たちにとって唯一無二のコミュニケーション方法だった。お互い日常会話が弾むタイプではなかった分、その時間だけは得意分野の魔法で呪いを解かれた親子熊のように雄弁だった。

 一方、勉強から離れると寡黙になる私たちを繋いでくれるのは母だった。彼女は大抵真ん中で、真夏のひまわりよろしく左右に揺れながら話をする。おかげで雨の日も風の日も雪の日でさえも、家族三人、晴天の下で日向ぼっこをしているような心地でいられた。そうしてやせっぽっちの父と私は、大柄のひまわりに太陽を分け与えてもらいながら暮らしてきたのだ。


 飛行機に乗れなくなったことに気がついたのは、父の死からちょうど1年が経ち、母が仕事を開始しようと準備している頃。当時の恋人を空港へ見送りに行ったときのことだった。

 空港へ足を踏み入れた瞬間に、これまで味わったことがないような動悸を感じた。歩みを進めるたびにそれはじっとりと重みを増し巨大化していった。平常心を装ったまま彼と入口で挨拶をすませ、一人で見送り用のゲートへ向かった。彼に手を振ることが目的ではなく、もはや一刻も早く椅子に座り休みたかった為だ。

 見送り用のゲートは一面ガラス張りのスペースで、これから飛び立つ予定の飛行機が近距離で眺められるようになっていた。その場所へたどり着いた途端、私は見事なまでに気を失い、目覚めると医師から過呼吸だったことを告げられた。心当たりを聞かれたので父のことを話したら、医師は神妙な顔で床を見ながら、心療内科の受診を薦めた。その場で紹介状を書いてもらい、その足で心療内科へ向かった。恋人のことはもうどうでもよくなっていた。留学先からの帰国はいつだっただろうか、迎えにはもう行きたくない、ぼんやりとした思考の中でそう思ったのを覚えている。

 父の死が関係する発作であることは診察を受けるまでもなかったけれど、こうまで体に表れるとあらば、なんらかの処置が必要だった。主治医となった担当医は青白い顔をした初老の男性で、どこか父と似ていた。それは私に束の間の安らぎを与えてくれた。その感情は私が父そのものをトラウマにしたわけではないことの証明となり、その証明自体が大きな救いとなっていた。

 最初のカウンセリングがすんでからは、精神安定剤と睡眠の質についての質疑応答のみというやりとりで10年間が過ぎた。医師と私はお互いに、それ以上もそれ以下も必要ないことを分かっていたのだと思う。待ち時間はたいてい10分ほどで、診察時間は5分だった。安定剤もお守り程度に持っていればいいという判断で、月に一度少量を処方してもらうのが恒例だった。

 母には発作が起きた日の晩に報告した。聞くや否や彼女の動きは瞬時に止まった。硬直に近い印象だった。それからエプロンをゆっくりとはずし、ダイニングテーブルに腰掛け、そっと目を閉じた。きっかり30秒後に目を開くと、「無事でほんとうによかった」とだけ言って、微笑んだ。

 母の微笑みは、いつか教会で見た聖母マリアのそれに酷似している。私は少し力が抜けて、向かいの椅子にすとんと腰掛けた。そして、そっと微笑み返す。私の微笑みは、彼女にはどう映っているのだろうか。ぼんやりとそんなことを考えていると、 唐突に母は切り出した。

「お母さんね、お父さんと出会った瞬間に気づいてたの」

「どういうこと?」

 無意識に、テーブルの上にあったコースターを握りしめる。

「あのね、この人きっと長くないって」

 母は、元々特別な能力があるわけでもなんでもないが、父と出会ったその日、父の体が透けて見えたのだそうだ。そして潜在的に〝助けたい〟と思った、と力強く言った。気づけば二人はホテルのベッドの上に寝ていて、朝陽がシーツをこの世の始まりのような白に染めていた。と、お父さんが呟いたの、と遠くを見ながら母は言った。

 〝この世の始まりみたいに白いね〟〝え?どこどこ?〟〝この、朝陽の一線だよ。この部分だけ、すごく白い〟〝ほんとうだわ〟

 二人はその瞬間から、長年連れ添った夫婦のようだったと目を細めて笑う。その時の父はもう透けていなかった。

 その1カ月後に私は母のお腹の中に現れたのだ。

 父の姿を見た最後の朝、たまたま私も母も揃って玄関で見送りをした。その時、母の目に映る父の背は、出会った頃と同じように透きとおって見えたという。

「それならなんで止めなかったの!どんな理由をつけてでも行かせなければよかったのに!」

 自分でも驚くほど大きな声が出て、体の奥がじんじんとした。入れ替わりのように、その後の沈黙が私の内側をスースーと通り過ぎて行くのが分かった。母の顔を直視することはできなかった。きっと、目を閉じているのだろう。良いときにも悪いときにも、彼女は目を閉じる癖がある。そしてその間はいつも30秒くらい動かない。

「そういうことじゃないのよ」

 私が逆上することは分かっているはずなのに、母はあえてそのように返した。すかさずはっきりとした低い声で続ける。

「これ以上はどうしようもなかった」

 そうなのだ。既に母は父を救っていた。信じがたい話ではあったが、私はそのまま受け入れることにした。

 私の右手の中で一時的にしわくちゃになったコースターは、母が淹れてくれたココアの分厚いマグカップを上に乗せたとたん、何食わぬ顔で元の姿に戻っていった。


 大学を卒業した私は翻訳の仕事についた。けれどフリーランスで生きていく自信もスキルも持ち合わせていなかったから、翻訳を行なうことができる印刷会社に就職した。

 翻訳の部署はごく一部で、主力部門は営業担当と営業事務が二人一組で働いている営業部だった。入社の年がちょうど規模拡大の時期だったこともあり、その影響で翻訳の仕事はさらに縮小され、営業事務員を増やす傾向にあった。

「これからという時期に申し訳ないが…」と入社1カ月後に呼び出された面談室で、上司は険しい表情を貼り付かせたまま切り出した。「落ち着けば翻訳に戻れるはずだし、そのように手配するからしばらく頼むよ」そう言って営業事務への異動を通達された。そのまま頭を下げられたのだからどうしようもない。

 翻訳にはたしかに憧れがあった。なにより父が得意としていた仕事でもあるし、本と勉強が友達だった自分には合っていたと思う。しかし飛行機に乗れないという負い目を持っていた身としては、活動範囲が限られる為フリーランスになれるはずがないと半ばあきらめていたこともあり、執着心はなかった。

「会社の意向ですし、もちろんやらせていただきます」

 返事をするやいなや、上司はぱっと霧が晴れたような顔つきになった。一人も無駄にできない人員の中で、私が癇癪を起して辞職しないように説得するのが彼の役割だったのだろう。

 それからは、半ば気を失いそうなほど残業つづきの日々を送った。本格的な繁忙期を迎えてからは、家に帰れず会社に寝泊まりする者が続出するほどの忙しさだった。

 異動してから1年が経ったころ、あるトラブルが起こった。大口の取引について手配漏れが発覚したのだ。詳しくない者でも理解できるほどの大損失だった。営業担当と共に対応していたのは私だった。私の生真面目な点は部署の誰もが知るところだったが、一方の営業担当は社内でも1、2を争うルーズな性格で、彼の指示漏れであることは明らかだった。

 しかし彼は間違いなく私に指示を出しそれを忘れたのは私だと言い張った。指示を出した履歴がないこともあり同僚たちはかばってくれたが、そもそも普段から口頭でのやりとりが多い彼のやり方に甘んじて直近では記録など殆ど残せていなかった為、言った言わないの争いにしかならないのは目に見えていた。会社側は、誰か一人でも責任をとらせる必要があったのだと思う。担当営業と私の上司は上から代わる代わる呼び出されていた。私は既にすっかりくたびれていて、辞職する理由探しをしている頃でもあった。向こうから理由がやってきたのだ。飛びつかない手はない。摩耗した思考回路に光が射した気がした。

 翌朝の面談で、私は上司に淡々と告げた。

「ご指示の履歴がないにしろ、私が聞いていなかったという証拠にはなりません。責任がとれる立場ではないのは承知していますが、いずれにしても、 私はこのまま働き続けられる状態ではありませんので、退職させていただきます」

 入社当時、頭を下げられた上司に頭を下げ返す。彼は何も言わなかった。顔を上げると、苦虫を噛み潰したような表情を貼り付けたまま少し遠くを見ていた。

 深々と頭を下げ、面談室の扉を静かに閉めた瞬間、今度は私自身の霧がはっきりと晴れてゆくのを感じた。


 それからは、正社員ではない形で働きながら生きていこうと決意した。

 日々のルーティンや時間割をつくり、理想的な寝食の時間を確保できる仕事を探すこと。それを自分自身との約束ごととしたのだ。まずはこのルールでやっていこう。だめだったら、やり方を変えればいい。そう思って始めたのだが、これがなかなか私には合っていたようだった。

 まわりからは心配されたが心と体が壊れてからでは遅い。何を言われようと、今現在の私を守ることができるのは今現在ここに生きている私だけなのだから。

 心も体もすり減らし働いていた期間、貯金しかすることがなかったおかげでそれなりの蓄えもある。日々の支出を無理ない範囲で最低限にすれば良い。質素とは貧しいことではなく、シンプルだということだと解釈しつつ暮らし始めたら、心身ともに根強い雑草のように健やかになってきた。

 正社員じゃなかろうが、不安定な職務形態だと思われようが知ったこっちゃない。歳を重ねて、少しずつ大らかな母の性格に似てきたのかもしれない。それでも生真面目であることに変わりはないし、良いことばかりではないけれど。

 今の仕事は長期派遣のデータ処理業務だ。人が入れ替わり立ち代わりする短期とは違う空気感がある。規模が大きく落ち着いた雰囲気のオフィスの中で、皆淡々とパソコンと向かい合って作業をしている為、キーボードのタイピング音が合奏のように聴こえるほどだ。それでも各自決まった時間内に片付けられるだけの仕事を保持し、時間がくれば一斉に帰り支度をする。仕事内容がほぼルーティン化されているということもあり、手を抜かずベストを尽くせば勤務時間内に終えることができる分量なのだ。

 正社員が全体の7割、他が派遣社員で構成されているその組織の中で、日々楽器の部品よろしく働いている。派遣社員は正社員よりも2時間ほど退勤時間が早い。もちろん収入も福利厚生の差も歴然だけれど、私にとっては心地良いリズムで働ける勤務形態だ。


 土日の休日とは別で、月に一度自由に休みを選んでいい日がある。私は毎月第三水曜日を自分の定休日ということにした。

 予定は未定。なんの日でもない。セルフメンテナンスデーと名付け、何も予定せずその日の私がやりたいことに身を任せる。銭湯に行きたければそれでいいし、本屋に行きたければ行かせてあげる。遠くへ行きたくても近くへ行きたくても。誰かに会いたくても。誰にも会いたくなくても。

 今日の私は一日中部屋にいたいと言っている。アロエも後押ししてくれた。しかしながらパジャマ姿のままでは落ち着かない性格だから、近所までなら行ける程度の服装に着替え、珈琲を飲む。

 珈琲は豆から手で挽く。台所の作業台がその都度こまかな粉だらけになるが気にしない。しかし今日は自制した。なぜならPMS期間だから。

 PMSとは、月経前症候群というのだそうだ。友人のツナちゃんが教えてくれた。生理3日~10日前に訪れる女性特有の不調を指す。原因は断定されていないそうだが、身体だけではなくって心や思考にも影響を及ぼすそれについて「もはや異星人に乗っ取られたと表現しても過言ではない」とツナちゃんは鼻の穴をふくらませて力説していた。

 その頃は、珈琲の美味しさに目覚めたばかりということもあり毎日多量を摂取しはじめた時期で、その日も待ち合わせた喫茶店でブラックコーヒーを2杯飲み干したあたりだった。

 ツナちゃんは大げさに身を乗り出し、

「個人差はあるけど、珈琲のカフェインとかチョコレートとは相性悪いみたい。悪化したら大変だよ 」と眉をひそめながら言ってから、コーヒーカップの底を一瞥した。

「まさか」ツナちゃんの仰々しい様子が滑稽で、私は肩をすくめて笑ったけれど予言者ツナちゃんの予想は的中した。

 その翌月から、PMSは私の部屋の扉をノックと同時に入ってきたのだ。無防備な私を尻目に、どんどん支配してゆく。乗っ取られた、そう実感した。PMSについてこれまで知らなかったことが嘘のようだし、人は実際に体験しないと学ばないのだということを痛いくらいに思い知る日々を過ごした。

 珈琲を控えても、それは毎月容赦なく訪れた。もちろん元に戻る頃には生理が始まるので、月に一度の憂鬱が二度に増えたのだ。

 特に困ったのは注意力の低下だった。いつもはなんなくできていたことになぜかとまどったり、的はずれなことをしてしまう。身体が辛いだけならまだしも、乗っ取られたと感じるのはこの症状についてだった。

 気持ちも沈み、さらにうだうだと複雑に考え込んでしまう。普段はごく簡単に進む仕事や、職場での人間関係も、細かなことが気に障って爆発しそうな精神状態になることさえある。

 困り果てた矢先、私はおまもり的な行為で難を逃れることを閃いた。アスリートのルーティン動作のようなものだ。

 それは、しおしおの梅干しを使っておにぎりをこしらえること。

 コアの部分に鎮座させるのは、長らく漬け込まれて塩分が結晶になりかけたしわしわの梅干し。これは祖母が毎年送ってくれるお手製のものだ。こんな梅干しを好んで食べることができるのは親戚一同の中で私だけだった。もちろん塩分過多にならないように、一日の塩分量を減らした上で食する。そして絶対に一日一つ以上は食べないように心掛けている。

 そのしおしお梅干しを包み込むお米粒らが、ぎゅっと身を寄せ合って凛々しい三角形になるまで丁寧に丁寧に両手で成形してゆく。大きさは両手のひらの中に収まるくらいのミニマムサイズだ。

 こしらえる時間帯は白湯を飲み終わったあと。出窓のアロエに霧吹きで水をあげてから、そっと始めるおまもり行為。〝私は大丈夫〟心の中で唱えながら握り始めると、不思議と冷静になれる。かつ、根拠のない逞しさが内側から湧いてくるのを感じるのだ。プールサイドに鎮座して、騒ぐ小学生男子をほほえましく眺めながらも万一プールで溺れるようなことがあれば最速で助け出せるようスタンバイしている監視員のような気持ち。ムキムキな逆三角形の身体。ピチピチの水着、肌はもちろん食パンの耳のような小麦色をしている。一見暑苦しいけれど、思考は流氷のように冷たく沈着で、子どもたちの動きをハゲタカのような鋭い目で観察している。もちろん黒いゴーグルをサングラスがわりに装着しているため、その表情を盗み見られることはない…。などと、とてつもなくくだらない空想をしながら私は一人、キッチンの片隅でほくそ笑むのだった。

 作るのはたった一つだけというのも自分ルールである。なんたっておまもりなので、一つで十分なのだ。

 小さくてきゅっとしたそれをラップにくるんだあと、気に入っているスカーフに包んで鞄に入れる。メイクはせずに日焼け止めだけを塗って、近くの公園へ出かけた。

 公園までの道のりは、歩いて15分くらい。家の場所を南とすると、駅が北側にあり、公園は東側にある。途中、寂れた商店街の入り口があるが通過して、いつも誰か一人はベンチで洗濯が終わるのを待っているコインランドリーを横目に歩き進めてゆく。


 晴れた日と散歩は切っても切れない間柄だ。

 太陽光には、幸せホルモンと呼ばれるセロトニンの分泌を促したり、ビタミンDを生成してくれるという効能がある。ビタミンDは食事だけで補うことが難しい為、紫外線を適正な時間浴びることが大切なのだそうだ。

 この二つの情報を本で得てから、休日の散歩は欠かせないものになった。晴れていれば必ず行なう、儀式のようなもの。たとえ1日中部屋にいたいと心から思っていても、この散歩だけは欠かさない。

 公園には誰もいなかった。

 平日のお昼時。子どもも大人も昼ごはんを食べている時間帯だ。

 私は思う存分ブランコに乗ってから立ちこぎをしようか一瞬迷って、やめた。仮にも椅子であるブランコの座面に土足で上がることには昔から抵抗があったのだ。思えば子どものころから、いろいろ先回りして考えすぎる性格だった。決められた規則を守ることは好きだったが、それが理にかなっていると判断できないときには困った。中高生のときは特にそうだった。優等生だと言われていたが、辻褄の合わない校則を見つけては詰め寄るので教師には嫌われていた。柔軟性や協調性がないと言われ、誰とも口をきかなくなったから友達もほとんどいなくなった。

 まわりが私の扱いについて白旗をふるたび、私は私自身の殻を少しずつ少しずつ厚くしていった。

 こだわりが強い子。こだわりが強い人。いつどこで誰といても、その場の空気に馴染めない自分。唯一馴染んでいると思える場所は、自分の部屋だけだった。お気に入りの小物や家具、飾りものなどそのどれもがいつでもあたたかく好意的に受け入れてくれる。色も音も香りもすべて味方だ。そこではうまく呼吸をすることができた。

 そんな私が、大人になったからといって誰かと同棲するなんて夢にも思わなかったけれど、理由は簡単だった。自分の部屋を気に入ってくれたから。

「センスがいいね、これ俺も持ってる」初めて部屋に招いた時の彼のその言葉に、本来の自分を肯定してもらえた気がした。

 実際に私たちの好みは驚くほど一致した。しかしそれだけだった。

 別れたのは同棲してから半年後のことだ。似た者同士が居心地の良さを継続するには、友人同士という距離間が適切だったことを痛感した。心も体も等しくそうだった。初めは曖昧なそれぞれの境界線が、その後色濃くなるまでに時間はかからなかった。いつのまにか、花の趣味が違うだけで破滅的な亀裂を感じるようになった。

 〝私たちは近づきすぎている〟中盤からそう感じながらも、これはある種の実験だと自分に言い聞かせ、後半では「失敗した」と思った。せめてもの救いは、お互いがほぼ同時期に同じ感情を抱いたこと。疲れきった似た者同士の二人は、阿吽の呼吸でさよならをした。

 彼は彼の住処に帰るため。私はこの部屋を自分自身に還すために。


 足で空を漕ぐのをやめたので、気づけばブランコは完全に失速していた。

 水筒を鞄から取り出そうとベンチに歩み寄ってから、入れ忘れたことに気づき肩を落とした。ふと、先週末職場で起こったことが思い出された。

 その日も帰り際、デスクに水筒を忘れてしまって取りに戻った。そのまま何の気なしに女子トイレに入ると、聞きなれた声が近づいてきた。どうやら数名いるらしく、お目当てはトイレではなくトイレに設置してあるメイク直し用のスペースだった。その場所は手洗い場を通り過ぎた先の一番奥にあり、もちろん壁などはない為気配や声は丸聞こえである。私は女性が数名かたまっておしゃべりをしているのが本能的に苦手だ。けたたましく羽をバサバサさせて集う鳩のように見える。本物の鳩であれば飛び立つときのあの空気をひっかくような騒がしさだけに恐怖を感じるのだが、女性陣のそれは静止していてもなお、不快感が持続するので恐ろしいと思う。甲高く通る声で話し続けているのはリーダー格の女性で、部署は違うがデスクが近いのですぐに分かった。

「あの人さ、今日も帰るの早かったよね。犬でも飼ってんのかな」

「なんか自分の世界に入っててこわいよね。マイルールとかすごそう」

 周囲の女性も声を揃える。

「あんたのテリトリーなんて入らないっつうの。気持ち悪い」

 嫉妬であることは明らかだった。その日、私が所属する部署と彼女の部署を統括するマネージャーが本部から顔を出していて、皆の前で私のことを褒めた。仕事が早くて正確で丁寧。3拍子揃うなんて素晴らしい、と。リーダー格の女性は数日前に大きなミスをして、マネージャーにきつく注意を受けていたことをその場の全員が知っているという状況だった。かつ、そのミスは自身の取り掛かりが遅かったこととケアレスによる確認漏れが原因だった。彼女のはらわたが煮えくり返る音を聞いた気がして、視線を感じつつもそちら側を見ることはできなかった。

 新たに女子トイレへ誰かが入ってくる足音がした為、彼女たちはおしゃべりを一時中断した。その隙に個室から出て手洗い場へ移動し、そっと外へ出た。

 その日も普段通り、満員電車では夕食のメニューを考えながら揺れに身を任せ、車内がすいてきた頃には途中になっていた本の続きを読み進めた。駅から20分の道のりは疲れた体には地味に遠いけれど、普段これといった運動をしていない分、トレーニングだと思いながらしっかりと歩いて帰る。家のドアを開け、まずはお風呂に入りシャワーを浴びた。いつもと同じ手順で顔や髪や体を洗い終えたころ、湯舟にお湯をはりそびれていたことに気づいた。しかたないやとそのまま上がる。冷蔵庫から炭酸水を取り出し飲み始めたその瞬間に、それはじわじわと体の芯から湧き上がってきた。炭酸のしゅわしゅわが内側から後押しをするように、じんわりとかさを増してゆく。その湧き水はまぶたの裏まで這い上がってきたと同時に怒涛の涙となって、下まつ毛をかき分け床へと落ちていった。それはそれは一目散に。

 〝気持ち悪い〟って…。一体何なのだ。私がどう考えどう行動しようと、あの人達には一切関係ないし迷惑もかけていない。それなのにそれなのにあの言い方はさすがに…。そこまで一気に思考の波が押し寄せてからようやく、私は私が傷ついていたことを知った。

 なんでもないふりをしたって、人は人からダメージをくらう。深みまで達してようやく気づく痛みがある。しかしながら、幼少期や思春期に受けたような抜けない棘ではなくて良かった。そう言い聞かせるように、最後の炭酸をゆっくりと飲み干した。

〝彼女のあれは、妬み以外のなにものでもない。もはや哀れだ〟

 私にとって大人になるというのはこういうことで、どこかで冷静沈着な自分がすっくと現れる。頭ごなしにジャッジするでもなく、状況を静かな目で観察してから、お前は悪くないと鼓膜に囁いてくれる。その囁きに導かれて、これまでなんとかやってくることができた。

 太陽が位置移動をして半分日陰になり肌寒さを感じたので、私はまたブランコへ戻って着席した。目線を上げて遠くを見やると、駅の向こうに立っている大型マンションの側面が目に入った。その各所から、ひらひらと洗濯物の白や青や赤がのぞいている。

 ふと、あのおにぎりの存在を思い出してベンチから持ってきた鞄を膝に抱えた。

 それは小さくて神聖な私の守り神。うやうやしくスカーフの結び目をほどいて、手のひらで包み込む。ラップをそっと外したら、間髪入れずに真ん中まで口に入れた。ちょうどしおしおの梅干しがあるあたり。前歯が梅干しの端っこをとらえたから、 しおしおと梅肉がお米粒とちょうどよい具合にシャッフルされる。口内から体全体が満たされるのを感じ、心までほどけていくのが分かった。

 なにもかも、今目の前にある幸せを前にしたらどうでもよいちっぽけなこと。ちっぽけなおにぎりに救われながら、芯からそう思っている自分がいる。


 近所の家々から、子供たちが少しずつ出てくる気配がした。もうすぐお昼が終わるのだろう。そそくさと鞄にスカーフをしまって、立ち上がった。

 駅のほうへと歩き出す。駅にある郵便ポストが目当てだ。ポストならすぐ近くのスーパーにもあるのだが、回収時間が一日一回のみで今日は既に過ぎている。

 手紙の宛先は友人のツナちゃんだ。2つ年下の彼女とは短期バイトで知り合ったのち、去年偶然再会してから仲良くなった。彼女とはそれ以来定期的に会うことにしているが、その際は手紙を出すことに決めている。

 まず私は携帯電話を持っていない。今時の一人暮らしには珍しく固定電話を引いていて、それ一本で暮らしている。職場から急に呼び出されることもないし、必要な時には留守番電話にメッセージを入れてもらうことになっているから問題ない。

 そういうことで、急がないときの連絡手段は手紙がメインなのだ。ツナちゃんにそのことを告げたとき、口をあんぐりとあけ、絵に書いたような驚き方をした。

「おばあさんと友達になったとでも思って、気長にお願いします」と言うと、

「今どきおばあさんでも持ってるよ」と笑われた。

 携帯電話を持たない理由はとてもシンプルで、興味がない。欲しくない。煩わしい。ただそれだけである。過去に一度だけ親に心配されて持ったことはあるけれど、不定期に届くメールや通知、着信は私の心を分かりやすく乱していった。この性格だから合わないことは明らかだったけれど、やはりだめだった。自分の生活リズムに合わないものを持ち続けるメリットがどこにも感じられず、解約した。友人には最後に事情をまとめた内容のメールを送り、住所と固定電話の番号を改めて通知した。

 私と携帯電話との日々はそうしてあっさりと幕を閉じたのだ。


 駅の郵便ポストへ手紙を投函してから、中の通路を通って西側へ出た。こちら側にももう一つ商店街がある。古いが東側のものとは違ってそれぞれの店舗に活気があり、着実に営みがある空気がほっとさせてくれる。デパートやスーパーのようにすみずみまでを容赦なく照らし出すぎらぎら感がないのも好ましい。

 3分ほど歩いたあたりにお豆腐屋さんが1軒ある。この店の豆腐ドーナツとおからとお惣菜を買って帰るのが、散歩帰りの恒例行事だ。お豆腐屋さんは絶え間なく白いもくもくの湯気に包まれていて、その中から威勢の良いお店のご主人と女将さんの掛け声が聞こえてくる。

 この日は、珍しく娘さんが店番をしていた。しばらく見ないうちに、お腹が大きくなっている。常連客とほんわかとした口調で話している彼女は、くりくりした目と愛らしい口元が少女のようで、私よりも少し年下に見えた。自分よりも年下の妊婦を見る度に、心の奥のほうにちくりとうずくものを感じるようになったのはいつからだろう。最近は街や職場、電車の中でもそのしこりのような感情が影をさす瞬間があり、自分でも困惑したりする。

 しかし、今目の前にいる彼女は特別だ。

「やっと安定期に入ったんです」

 鈴のようによく通るけれどおだやかな声音で、微笑みながらお腹をさすっている。常連客である高齢の女性はうんうんと嬉しそうに頷き、皺だらけの右手をゆっくりと伸ばして大きなお腹の真ん中あたりにそっと置いた。その様子は、白い湯気も相まってまるで天国のような光景だった。

 しばし見とれていたが、奥にいた女将さんの声で現実に戻った。

「いつもありがとうございます!」

 おそらく、娘さんが私に気づいていないことを察したのだろう。

「お待たせしてごめんなさい。いつものですか?」

 はっとした娘さんが頭を下げながら、私のほうへ大股で近づいてきた。気恥ずかしくなりうつむきかげんで頷くと、女将さんが奥で一式をまとめてくれている気配がした。通い始めて約2年。これといった話題も思いつかないまま、〝いつもの〟という頼もしい合言葉を手に入れた私は、それだけでこの町にいていいような大げさな安心感を手に入れている。半年くらい前から、お惣菜を一つおまけしてくれるようにもなった。私の人見知りを知ってか知らずか、ぐいぐいと接客をしたり無理やり話しかけるようなことはせず、ただそっととびきりの笑顔で最上のサービスをしてくれるお豆腐屋の一家。ホカホカの紙袋を胸に抱きしめて歩く家路はなにより満たされた心地になれる。

 休日の締めくくりに最もふさわしい、とここ2年ずっとそう思えていられるということは本当に恵まれたことだ。


 帰宅すると、出窓から見える空がピンク色に染まっていた。

 アロエのシルエットを細目で見ながら、猫に見立てて「ただいま」と声をかける。当たり前だがアロエは猫ではないし、微動だにしない。

 私はお豆腐セットを冷蔵庫へ丁寧にしまって、出窓に腰かけた。この家を決めたポイントはまぎれもなくこの大きな出窓と、まるで教会のような日当たりの良さだ。油断するといろいろ考え込んでしまう性格の私に、やはり太陽の光は欠かせない。

 お前も同じだよね、とアロエの鉢を引き寄せる。ふとカレンダーを見やって、来週の生理日を確認した。私は31日周期だから、来月はきっとこれくらいで…とぶつぶつ予測を立て思案する。来月はお楽しみが控えているのだ。今日出した手紙の内容もそれだった。

 PMSは太陽光と豆乳パワーのおかげでなんとか勢力を弱めつつある。

 暮れかけた空を横目にカーテンを引いて、夜時間の支度を始めた。


18:00 入浴

19:00 夕食

19:30 食休めの読書

20:00 手帳を書いて一日の振り返り&明日の確認

20:30 ストレッチとゆるいヨガ

21:00 フリータイム

22:00 就寝


 湯舟には毎日必ず浸かることにしている。浸からないでシャワーだけで済ました日は、なんとなく疲れやすい。体の奥に流れている小川が滞っているような、そんな気がして落ち着かない。それ以来自分にとっての入浴とは湯船に浸かるところまで、と定めた。元々慢性的な冷え性だということも関係しているかもしれない。

 お風呂から上がって髪を乾かしている間は、軽くスクワットをする。たったの10カウント分だが、しないよりは大いにマシだと思い習慣にすることにした。仕事が忙しいと、この10カウントさえままならない。途中の5~6カウントあたりで昔の深夜テレビの砂嵐のように思考がくぐもって、仕事やその他のことを受動的に考え始めてしまうから。そういうときは〝疲労に乗っ取られつつある〟ことに気づくことができる。それから立て直すための作戦を練り始めるのだけれど、そもそもまずこの気づきそのものが重要だと思っている。


 一昨日は、突然の知らせに動揺して心がぐらぐらした。

 母の姉、つまり私の伯母さんから長年営んだ本屋をたたむという手紙が届いたのだ。その店は元々伯父さんが経営していたのだけれど20年ほど前に亡くなって以来、彼女が一人で切り盛りしていた。切り盛りという言葉が似つかわしくないくらい、ひっそりとした半地下にその店はある。しかしひとたび足を踏み入れると、時を忘れて何時間でも過ごせる吸引力に満ちた場所だった。

 私と母はあまり趣味趣向が合わなかったが、伯母さんとは重なる部分が多かった。母は手先が不器用で手芸に一切の興味がない一方で、伯母さんはものの数分で手編みのコースターを編み上げることができたし、習い事用の手提げかばんも作ってくれた。私はいつも、伯母さんの手から魔法のように生まれ出る日用品を気に入り愛用していた。

 そしてなによりも、本と出会う扉を開いてくれたのが彼女だった。私のこの妄想癖も含めて。

 伯母さんの店で誇らしげに並ぶ本たちの存在が、その頃の私を形作りその後の私を支え続けてくれたのだった。

 

 店をたたんだら、日本を出るという。〝どの国に行くかはまだ決めていないのだけれど、その国で余生を過ごす予定なの〟と手紙にはたしかな字で書いてあった。記してあった、というのが正しくなる日がくるのかもしれない。私はそんなことを考え胸がぎゅうと締め付けられるのを感じながら、何度も何度もその長い手紙を読み返した。

 私の胸にしがみついている感情が寂しさや喪失感よりも焦りだと気がついたのは、お風呂上りにスクワットをしているときだった。

「日本とはもうおさらばしたいのよね 」 と、半分魔女のような彼女はそれでいて温和な口調で言うだろう。そして、「あなたはどこでどう生きていきたいのかしら」そう尋ねられているような気がした。

 日本を出たことは一度もないが、日本の外側にある国々を私は子どものころからテレビで観ていた。それは世界中の電車にカメラ一つで乗り込んで旅している人の映像だった。各国のさまざまな景色が電車ならではのスピード感で流れてゆく。歩いているほうが早いのではと思うような電車もあれば、まばたきしていたら景色を見逃してしまうような超特急もあった。

「あたしは自転車と同じくらいの速さの電車がある国が好き!」と、お風呂上がりの伯母のネグリジェに頬を擦りつけながら言ったことを覚えている。

 あれは小学校に上がる前あたり、短期間だが母と二人で里帰りしていた頃のこと。母は祖母と祖父が住む実家で寝泊まりしていたが、私は特別に伯母さんの家で過ごすことを許された。

 伯母さんには一人息子がいて、その年の離れた従兄は当時すでに上京していた。今回、彼が店を買い取る形となり、今彼が行なっている事業の支店にするのだという。

 伯母さんの店はそれなりに借金だらけだったらしく、親子間と言えど買い取ってもらえたことに心から感謝している。だからこれからの日々についても安心してほしいと手紙には書いてあった。

 持つべきものは有能な息子かな、などと、スクワットの回数を見失いながら考えあぐねる。

 ずっと娘が欲しかったという伯母さんは、お風呂上がりに私の長い髪を乾かすのがとても好きだった。知らぬ間に鼻歌を歌い始めているほどのご機嫌ぶりで、その幸せが自分由来であることに、子どもながら満たされた気持ちになった。そうして髪を乾かしてもらったあと、彼女のさらさらとした肌触りのネグリジェに頬を擦りつけるのが私のほうの楽しみだった。

 その満ち足りた時間には必ず、世界を電車で旅する番組が流れていた。


 そういえばこの家にはテレビがない。

 古いけれど丈夫なラジカセだけが出窓の下にあり、そこから必要最低限のニュースと音楽を摂取している。十分だ。事足りている。ふと、入れっぱなしにしているカセットを見て、今日はこれをかけて眠ろうと思いついた。

 カセットは〝さゆ〟の新曲だ。

 さゆは、私とツナちゃんを再会させた路上ライブの主で、シンガーソングライター、というのだろうか、曲を作り演奏をして歌を歌っている女の子の名前。

 私とツナちゃんが再会したその日は、仕事で久しぶりにミスをして、いつも乗る電車に乗らずに歩いて帰ることを選んだ。そういう日には歩くに限るという母の謎の教えに乗っ取って、私はただスタスタと見慣れぬ道を線路沿いに突き進んでいた。ふと、木の板でできた手作りの看板が目に入った。〝Sayuの路上LIVEはこちら。19:30開演〟というあっさりとした情報だけが記されていたけれど、文字の隣で矢印を見上げる小さなリスのイラストが愛らしくて心惹かれた。

 矢印のほうへ目を向けると、居酒屋やバーが点在する通りを指している。狭すぎず広すぎずのその通路に、折りたたみの椅子に座って、目の前に文房具とタンバリンと鍵盤ハーモニカを真剣な眼差しで並べている少女が居た。彼女の横には小さな折りたたみの机がもう一つあって、そこには看板同様、手書きの文字で〝Sayu〟と書かれている。そしていくつかのカセットが重ねて置いてあった。その机にはオールバックにスーツという出で立ちのすらりとした男性が一人立っていて、机上にあるカセットとフライヤーの位置を整えてから静かに腕時計へ目を落としていた。開演にはまだ30分あったので、準備時間なのだろう。しかしすでに十名ほどの人だかりができていた。皆、目の前で準備に勤しんでいる彼女には声をかけずに、各々そっと佇んでいる。その様子は、以前動物園で見たペンギンたちの様子に似ていてほのぼのとした微笑ましさを感じさせた。

 開演15分前になったとき、ツナちゃんの存在に気づいた。最前列の端に一人で立っている、丁寧にセットされた栗色のボブヘア。ふっくらと柔らかいシルエットと横顔に見覚えがあり、ななめ前に回り込んで確認した。ツナちゃんは、泣き出しそうな表情をしていた。なめらかな八の字カーブに描かれた眉のラインが、今にも泣き出しそうな表情に見せているのだった。それが戦略的メイク技法だということに、彼女と向かい合ってから気づいた。

「あ!」

 お互いに小さな驚きの声が漏れた。

〝今にも泣き出しそうで、思わず守りたくなるようなライン〟というキャッチフレーズが、電車の吊り広告に記されていたのを一瞬で思い出した。

 ツナちゃんとの最初の出会いは三年前、期間限定で参加したバイト先でのことだった。コールセンターの仕事だ。ツナちゃんはその場所の新入社員だった。業務はざっくり分けると受電と発信の2種類あり、三カ月の期間限定で大量の受電枠が必要だった為に集められた人員の一人が私だった。

 ツナちゃんは当時研修中で、私たちと同じ仕事をしながら私がいるチームのとりまとめをしていた。ふんわりとした見かけとは裏腹に、芯があってまわりをよく見ている女の子だなあと珍しく好意を持ったのだけれど、常に混雑していて業務中以外の関わりといえばお昼の時間帯に挨拶を交わすくらいだったこともあり、交友関係を築くことはできなかったのだ。

「本当に久しぶり。こんなところで会うなんて」

 ツナちゃんは驚きのあまり、絶句に近い表情をなんとかひっこめた笑顔を見せてそう言った。

 もしかしたら、一人で楽しみたかったのかもしれない。不意を突かれた様子で恥ずかしそうに笑う彼女に、ふらりと立ち寄った私とは違う思い入れを感じた。

「私はじめて。さっき。看板を見て。よく来るの?」

 なぜか片言になってしまった私に、彼女は今度はふふふとやわらかく笑って、頷いた。

 いつの間にか、開演5分前になっていた。


 眠る前に行なうストレッチでは両足を開き前屈する。

 ラジカセから流れるさゆの声は、カセットテープ特有のざらつきのある音質の中でなお、透明でさらさらとしている。曲の背景を彩る楽器の中に、鉛筆やペン、その他の道具を叩いたり揺らしたりしている音が混ざり合って不思議と懐かしい心地良さを感じさせる。生活音と混ざるからなのかもしれない。それらは不思議なループを描いて心のふかぶかいところをゆらゆらと漂っている。

 アナログ、という言葉を通り越して〝手作り〟という表現がぴったりとくる音楽だ。時には川や風、謎のモールス信号から小鳥のさえずりまで、実にさまざまな音がちょうどよい塩梅で組み込まれている。

「アンビエントミュージックとフォークエレクトロニカの融合体だと思うの」

 ツナちゃんがライブ後の喫茶店で教えてくれた。環境音を機械的に整えて曲に取り入れているアーティストも多いんだけどね。あの子は違う感じ。と彼女は付け加えて、アイスのレモネードをストローで一気に吸い込んだ。私はホットのブラックコーヒーを口元で冷ましながら飲んでいた。

 かくゆうツナちゃんもさゆを知ったのは最近で、カセットを買ってからカセットレコーダーを調達しに近くの電気屋さんまで走った話をしてくれた。

 懐かしい、という感覚さえ通り越すような不思議な既視感に、ツナちゃんも私も無意識化で引き寄せられたのだろう。


 それから私たちは、さゆのライブの度にお茶をする仲になった。ライブは隔週、同じ場所で行われていて、それ以外の大きなものは彼女の事務所から届く会報のようなお知らせハガキにより事前に報せてくれる仕組みになっていた。来月行われる予定のライブは、少し大きなライブ会場で催される。久しぶりに気持ちが高揚していた。

 身体を左右に揺らしながら行なうゆるいヨガの動きに移り、静かに肺を膨らませて、そして萎ませた。私のささやかな収縮は心まで届いているようで、その日も深い眠りにつくことができた。






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